2012年2月22日水曜日

草花グルメはローマ時代から

デンマークのコペンハーゲンにあるレストラン「noma(ノーマ)」。
30代の若いシェフが2004年オープンしたまだ新しい店であるが、2010年と2011年の2年連続世界一優れたレストランに選ばれた。
(今や予約を取るのは困難で、私も2010年の夏に試みたがまったくダメだった。。。)
それまではフランスやスペインの老舗店が選ばれていたが、デンマークという土地の、新しい店が選ばれるというのは非常に稀。
しかしこのお店が有名になったのは味もさることながら、その独創的な飾り付け(プレゼンテーション)にある。
ルッコラやパンジーなど花を使った飾りつけはとても美しく、プレートが一つの自然界を表す。
今までのレストランと違うのは、その花や植物が単なる飾りではないこと。
必ずその料理の味と合うような植物が選ばれている。


例えば、カタバミというクローバーのような植物を生の牛肉の上にふんだんに飾り、まるで草原の中にいるような演出を見せる。
カタバミの葉は少し酸っぱいのだが、その酸味が肉を引き立てるようになっている。
詩的に飾られたプレートは見かけだけではないのだ。

面白いのは、このシェフが「森の中でブルーベリー摘みをするような気持ちを食べる人に抱いて欲しい」と作ったデザート。
普通はブルーベリー味のスイーツを作るだろう。
しかしシェフは「松の木の味のするアイスクリームにブルーベリーのソースを添える」という発想なのだ。
松の味のアイスを食べることで、森の中にいる様な感覚を得られるという。
とても洒落ているではないか。

フランスの有名なシェフの中には、自分が料理に使いたい植物やハーブをラテン語で覚え、特別に発注するらしい。
欧米の園芸界では植物名はラテン語を使うのが普通だが、園芸家ならず、シェフもラテン語で植物の名前を覚えることに驚きを感じた。
もはや草花は脇役ではなく、料理のメインなのだ。

コモンセージ
調べてみると、ルッコラやタイムなど今私達が食べているハーブの多くは、ローマ時代にはすでに食べられていた。

香りの強いチャービル(フランス語でセルフィーユ。よくケーキの上などに飾ってある葉っぱ)はローマ時代、滋養強壮として飲まれていた。
ラテン語で「○○ Officinalis」とつくものは、薬草として使われたもの。「Officinalis」とは「薬用の」という意味を表す。
例えばセージは、Salvia Officinalis
アラビアに「庭にセージを植えれば死なずにすむ」という諺があるぐらい、薬用として重宝されていた。
英語の「Sage」を辞書で引くと、「賢者、聖人」「年齢と経験とともに備わる知恵を持つさま」という意味が出てくる。Sage adviseとは「賢い助言」。
セージなどのハーブを上手に使う人は、賢人として尊ばれたのであろう。


最近よく売られているルッコラはローマ人のお気に入りの食べ物だったらしく、その時使われていたルッコラの言葉はローマ語で「スープを美味しくするもの」という意味だった。
スープにルッコラを入れて料理を楽しむローマ人のグルメぶりがよくわかる。

ローマ時代から人間は草花を上手に使い、目にも舌にも美味しく、美しい料理を愛していたのだ。














2012年2月13日月曜日

「天龍寺船」は庭のために始めた!? 夢窓国師

「地上の楽園」の回で、イスラム庭園は現世の楽園を表しているという話をした。
ヨーロッパでも同じ。庭は理想の楽園「エデンの園」を表すものであった。
では日本ではどうか?

日本庭園にも楽園を表す庭園がある。
それは京都の松尾にある「西芳寺(さいほうじ)」だ。
美しい苔が有名なため「苔寺」という名前でも呼ばれる。
日本なので楽園ではなく、「極楽浄土」の世界を表している。

西芳寺の庭を造ったのは「夢窓国師(むそうこくし)」である。
彼は一番最初に「枯山水」を手がけた人物。
西芳寺には今もその枯山水の石組が残る。

夢窓国師は室町時代の高僧で、「国師」いうのは高僧に与えられる称号であった。彼は歴代の天皇から7度(!)にも渡りこの「国師」の称号を賜っている。
しかし彼はただの僧ではない。足利尊氏に対して政治的発言力を持ち、重用されてた人物なのだ。

天龍寺
嵐山にある天龍寺の庭も夢窓国師が造ったものである。
足利尊氏は後醍醐天皇の死を弔うため、夢窓国師のアドバイスに従い天龍寺を開山する。
しかしお寺を造るうちに資金は無くなってしまった。まだ出来て間もない室町幕府は、南朝との戦いで財政的にひっ迫していたのである。
どうしたらいいものか、尊氏は夢窓国師に資金繰りを相談する。
そこで夢窓国師が提案したのが、「中国・元との貿易を再開する」という案であった。
これが教科書などで聞いたことのある「天龍寺船」の始まり。
中国との貿易は、一つの庭を造るために始まったのである。

そしてこの貿易のおかげで足利尊氏は莫大な利益を上げ、庭の造営どころか幕府の財政も潤い、その後の繁栄を極めるのである。
夢窓国師はなかなかやり手の「政治家兼お坊さん」だったのだ。

そんな彼が、仏教の理想の世界「極楽浄土」を表そうと造ったのが西芳寺である。

池のある庭は「極楽」を表す。
苔に覆われた美しい庭を見ながら、木漏れ日の中池のほとりを歩けるようになっている。その美しさは見事であり、もし極楽浄土がこのような姿であれば心清らかな毎日が過ごせるだろうと思う。
しかし出来た当初苔は無かったらしい。応仁の乱で荒廃し、人々から忘れられ、ほっとかれて苔に覆われたらしい。
それが功を奏し、人の力が及ばない「極楽浄土」となった。

そして山の上にある庭は「地獄」を表す。
ゴツゴツとした岩が所々にあり、水は渇き、下の庭とはまったく異なった景色が広がる。
しかし山道を登りきると、壮大な枯山水の石組が目の前に広がる。
滝を表したその石組は600年経った今でも、まるで本物の水が流れているかのように見える。
山の中から湧き出た清水がこちらに流れてくる様子が想像できるのだ。
夢窓国師が優れた「造園家」でもあった事が十分窺える。

石組のすぐ横にはお堂が建ち、中には夢窓国師の像が安置されている。その像は石組の方向をじっと見つめている。
何百年もずっと自分の最高傑作を眺められるとは、高僧もさぞ幸せであろう。



(*西芳寺は要予約。希望日の一週間前までに往復ハガキに希望日、人数、代表者の住所・氏名を明記し応募すると、返信ハガキに拝観日と時間が書いて送られてくる。冥加料3,000円~ )





2012年2月7日火曜日

オシャレ必須アイテム☆ニンジャブーツ

「ニンジャブーツはどこで買えるの?」

日本に来た外国人に何度も聞かれる質問だ。
はいはい、あなたもニンンジャブーツですか…はいはい、それならいい場所知ってまっせ…もう慣れてしまった。
「着物」、「作務衣」に続いて外国人がお土産に買って帰りたい日本のアイテム、それは

「地下足袋(じかたび)」

である。
職人のおっちゃんが履いている、足の先が2つに別れて、上をクリップみたいな爪で止める、靴下みたいな履物だ。

あれは庭の職人さんも必需品で、木に登る時は滑らず、苔の上を歩いてもダメージを与えにくいという優れものなのだ。

外国人、特にアメリカやカナダの北米人は地下足袋のことを勝手に「ニンジャブーツ」と呼び、忍者の履いてた履物!と勝手に思い込んでいる。
私が考察するに、多分「ミュータント忍者タートルズ」の影響だと思われる。
タートルズをよく見ると特に何も履いていないのだが、足の先が2つに割れている。多分これからだ…。
ハリウッド映画の忍者のイメージもあるだろうが、子供の頃からタートルズを見ている彼らへの影響は計り知れない。


初めて地下足袋の事を私に聞いてきたのは、カナダ人の「ティム(Tim 23歳 男性)」だった。

彼は私が通っていたカナダの園芸学校の同級生。
トロントから1時間半ほど車で行った、ハミルトンという小さな工業都市の出身だ。(日本でいうと川崎って感じ?)
これがティム

私達が3年生の時に、クラスのみんなで日本に2週間修学旅行で来た。
せっかくクラスに日本人がいるんだから、一人ではとても旅行できない日本に行っちゃおう!って訳である。
そして京都に滞在した時、一人でショッピングに行っていた彼は、帰って来て嬉しそうに私に言った。

「ユリ!かっこいいニンジャブーツとコスチュームを発見したぞ~~!」

一体何を買ったんだと思って見てみたら、地下足袋と工事現場とかでとび職の人がよく履いているダボッっとしたズボン、あれを着ているのである!
それもかなり裾を「膨らました」やつなのだ。

彼は満足そうに
「今日素敵なお店を偶然見つけちゃったんだよね~~♪ちょっと高かったけど買っちゃった♪」

ティムはたいそうな倹約家で、カナダでも滅多にものを買わないのに、なんと地下足袋とダボダボパンツを即決でお買い上げ。それも2セット!
それは断じて忍者のコスチュームでは無い!とはとても言えないほどのご満悦ぶりだったのである。

そしてカナダに帰国後すぐ、彼は地元ハミルトンで開催されるお祭りに私や友達を誘ってくれたのだが、その時に着ていったのがこの「ニンジャブーツとパンツ」のフルセット。
ハミルトンのような小さな町で目立つ目立つ。工事現場のお兄ちゃんが外国を歩いてるようなもんだ。
しかし彼は、偶然出会う幼馴染み達に自慢げにこう言った。

「俺は日本に行って来たんだぜ!」
「日本で買ったニンジャブーツとニンジャパンツ履いてんだぜ!」

と…。
ハミルトンの人達は町から出ないで一生そこに暮らす人も多い。
特にまだ23歳位の若者達には、元同級生が日本に行って来たというのはビッグニュースだったに違いない。
「ニンジャの国に行ったんだ~。すげぇ~。」
みんな憧れの羨望でティムの話を聞いていた。

それから6年経つが、あれが忍者の衣装では無い事を今だティムに言えていない…。
彼は今イギリスの園芸学校に通っているが、ロンドンの街を地下足袋とダボダボパンツで颯爽と歩く姿を、勝手に想像しているのである。




2012年2月6日月曜日

泣かせる庭 重森三玲

庭を見て泣いたことはあるだろうか?
感動したり、幸せな気分になることはあるが、私はまだ泣いた事がない。

外国の人に庭を案内して今まで2人、庭を見て泣いた人がいた。
それは偶然にも同じ庭。
京都、東福寺の北庭、敷石と苔の市松模様が美しい「市松の庭」だ。

一人は52歳のイギリス人の女性。
彼女は2人の子供を育てあげ、これからという時に旦那が他の女性と浮気し家出、そして離婚。その後子宮摘出の大手術を受け、回復後カナダの園芸学校に入学してガーデニングを学ぶという経歴の持ち主だ。
いつもは大らかで、いかにも「よく喋るイギリスのおばちゃん」といった彼女が、この「市松の庭」を見た途端その場でポロポロ泣き始めたのだ。
そしてこう言った。

「この庭を見たとき、今までの自分の人生は何も間違ってない、と言われたような気がした。そしたら心がスーっと軽くなって、泣いてしまったの…。」


もう一人は47歳のデンマーク人の女性。
彼女は独身でとてもスタイリッシュな女性。40を過ぎてから再び大学院に通い、一生懸命勉強して子供のためのセラピストになった。お父さんが早くに亡くなって、お母さんを支えて生きてきた人だ。
彼女もやはりこの庭を見てポロポロと泣き始めた。
理由はやはり

「肩の荷が降りたような気分になったの。今までの苦労が報われた気がして…。」

50年という人生の半分以上を生き、酸いも甘いも知った年齢だからこそわかる気持ちなのかもしれない。
「苦しみ」や「悲しみ」という経験の果てに、「美しいものをより深く理解できる心」が備わるのなら、年を重ねることも悪くない。

この東福寺の庭は、1939年に重森 三玲(しげもり みれい)という作庭家によって造られた。
この時三玲は43歳。自邸以外でデザインした初の作品。この歳で初めての作庭とは遅咲きである。

彼は若いときに美術大学に入り日本画を学んだ。
26歳の時に文化大学院なるものを創設しようとしたが、関東大震災によって断念。
30代で新興いけばなを広めようとしたが、家元制度の壁が厚くうまくいかなかった。
しかし38歳の時に室戸台風により京都の古庭園が荒廃。復元修理のため、40歳の時に日本各地の庭園の実測調査を自ら始める。
この調査費捻出のため、奥さんは自宅で下宿屋を始めたそうだ。(この前年に生まれた赤子も含め、その時彼には4人の子供がいた!)
実測した庭園はなんと500以上。そして26巻から成る「日本庭園史図鑑」を刊行する。

結果それが縁となって東福寺の和尚から作庭を頼まれ、これが彼の代表作となった。
その後200以上の庭をデザインすることになるのだが、決して最初から順風満帆とは言えない、色々苦労のある人だった。

彼は晩年「ついに東福寺の庭を超えられなかった」と語っている。
彼が持てる渾身の力と情熱を注いで造った庭だったのだろう。
だからこそ「人を泣かせる庭」なのかもしれない。
70年経っても、その「気持ち」は伝わるのである。





2012年2月3日金曜日

イスラムの庭と京都の町屋の庭

前回イスラム庭園について書いたが、コーランの中で書かれている庭園の定義について少し触れてみたい。
 
コーランはイスラム教徒がどう生きるべきか示した書であるが、その中で、「庭園は楽園の象徴として、日陰と水が不可欠な要素である」と書かれている。驚くことに庭園についての記述は30回以上。
庭の定義が仏教の経典やキリスト教の聖書に書かれているだろうか。 
イスラム教徒にとって、庭はそれだけ重要なのだ。 

イスラム庭園がシンメトリーに4分割されている理由は、「楽園の四大河」からきている。
四大河とは、「水」、「乳」、「葡萄酒」、「はちみつ」の事であり、私的領域がこの4本の水路で4分割される。これをペルシャ語で「チャハル・バーグ(4つの庭)」という。
大切なものが水や乳というのはまだ理解できるが、そこに葡萄酒やはちみつが入っているのが面白い。イスラム人の生活の中で何が大切なものなのか理解できる。
日本だと何に当たるのだろうか?水は同じだが、他は酒?味噌?豆乳?日本庭園の中でそんなものがテーマになっているものは一つもない。
日本庭園は「仏教の世界」や「不老不死の仙人の住む蓬莱山」、「鶴と亀」、または「中国の故事」などが代表的なテーマである。
庭のテーマやデザインから、その国の文化がよくわかるのだ。

しかしこれだけ宗教観も文化も日本と違うイスラムの庭園であるが、なぜか私には親しみが湧く。
それは「プライベートな中庭(パテイオ)」というコンセプトが、京都の町屋の庭に似ているからだ。
京都の古い町屋の一番奥には美しい「奥庭」があることが多い。しかしそこはその家の者とごく限られた客しか入れないプライベートな「座敷」に面しており、関係者以外はその庭を見ることができない。
まさに私的な「内なる庭園」。
そしてその奥庭があることで、暗い町屋の中がぱっと明るくなり、それぞれの季節を感じることができる。
座敷から見ると一つの大きな絵画を見るようで、気持ちが和む。
京都の蒸し暑い夏にも、外からの涼しい風を室内に運んでくれる。
京都の町屋の庭は景観だけでなく、機能的な役割も果たしている。
暑い外の世界から帰宅し、プライベートな空間で心と体を癒すための庭。イスラムの庭と京都の町屋の庭は意外と似ているのだ。

余談だが、モロッコの村で見かけた川沿いの絨毯カフェを見たとき、私は京都のある見慣れた風景を思い出した。
夏の間、三条~五条の鴨川沿いに現れる「床(ゆか)」だ。
京都の人は蒸し暑い夜を少しでも涼しく過ごすため鴨川のほとりに床を建て、そこで食事し、酒を飲み、涼を感じる。
モロッコの人も京都の人も、考えることは同じだな、とちょっとおかしかった。